主婦ごころライター 桑原美砂子について

主婦ごころライター桑原美砂子

フリーで仕事をはじめてから6年の間、主婦をターゲットにした文章をずっと書き続けています。

ニュースレター、ホームページ用のインタビュー記事・取材記事、チラシテキスト、コピーライトなど、実績多数。

4児の母であり、義母の介護経験などを活かして、主婦の感性に訴える文章が得意。

また、職業カウンセラーとして、子育て中の女性の相談を毎月のべ100件受けているという一面もあります。

プロフィール詳細

私にとっての“仕事”

25歳で結婚して、長く主婦業に専念していました。現在はフリーライターと、女性の就職に関する相談員として働いています。

二つとも“私らしい仕事”です。二つの仕事を掛け持ちで働くのは大変な時もありますが、やりがいのある仕事はこんなにも人を生かしてくれるものなのかと実感する毎日です。

多くの女性の話を聞くとき、相談者が今置かれた状況を思いやりながら話が聞けるのは、今まで結婚、出産、介護、再就職と、私自身が女の人生のフルコースを味わいながら過ごしてきた年月があったからこそだと思います。

ここでは、そんな私の横顔を少しお話したいと思います。

育児ノイローゼ

長崎で気ままに一人暮らしをしていた私は、福岡に住む夫とお見合い結婚しました。翌年長男が生まれ、見知らぬ土地で孤独な子育てが始まりました。

環境に慣れないまま、ママ友との付き合い方にも戸惑いながら子育てをしていましたが、子どもが3人になった頃、育児ノイローゼ状態に。気がついたら、朝から夕方まで居間の同じ場所に座っているという日が続きました。

5歳を頭に生まれたばかりの赤ん坊まで3人子どもがいたのに、どう過ごしていたのか今も思い出せません。子どもの声が耳に入っても、何を言っているのか理解できないという事態になって、精神科通いも経験しました。

人のために悩む大切さ

そのころ、妹夫婦が不動産屋に騙されそうになるという事が起きました。妹からひっきりなしに相談の電話がかかってきます。妹の一大事と聞くと放っておけません。あちらこちらに連絡をして、情報を集め、その不動産屋がいかに信用ならない相手かを突き止め、妹に伝えて契約を反故にさせました。

この一件をきっかけに私の育児ノイローゼは影をひそめていきました。自分のことだけを考えていたのでは結局自分の殻を打ち破れないことを、身を持って知った一件です。

同じ事は、夫の両親と同居に踏み切る時にも感じました。さまざまな事情で義両親が夫婦二人で生活するのは難しい状態になり、我が家に呼びよせて同居することにしたのです。

義両親がそれまで30年間住んでいたマンションを引き払い、私たちの家に越してくるために必要な、手続き、作業、ほとんど全てが私の仕事でした。大変なエネルギーがいりましたが、このときも、誰かのために働くことで自分が元気になることを実感しました。

専業主婦を卒業する

同居して1年ほど過ぎた頃、11年間の専業主婦時代を終えて、近所の公民館で事務員として働きはじめました。しかし、何があるか分からないもので、思いがけず4人目の子を授かりました。

やっと得た仕事のことや、自分の年齢、さらには私よりも11歳年上の夫の年齢と、生まれてくる子の年を考えると、喜びよりも悩みの方が大きかったのが本音ですが、意を決して出産。公民館の事務員は、たった9カ月で退職せざるを得ませんでした。

子どもが4人になると、ますます経済的な現実を突き付けられます。それまでのように、本当は仕事した方がいいんだけど…などとのん気なことは言っていられません。4年後には一番上の子が高校生になり、その2年後には二番目も高校生。高校生が二人と中学生、幼稚園児がいる生活が、目の前に迫ってきているのです。

フリーライターに

高齢出産だったこともあり、4人目を預けて外で働くのは、体力的にその頃は自信がありませんでした。そこで、在宅ワークを始めようと思いたちました。

最初は、「誰でもできそうだから」とデータ入力から。ネットの掲示板で求人情報を見つけて、いくつか実際に仕事をしてみました。ところが、「誰でもできる」なんてとんでもありません。1年ほど続けてみて、つくづく自分には合わない仕事だと悟りました。

次に選んだのはライターです。もともと文章を書くのは好きで、ネットのライターサークルに参加していたこともありました。とはいえ自分の文章でお金が稼げるなどと考えもしませんでしたが、そのころボランティアで書いていたものをいくつかお誉めいただいて、「ひょっとしていけるかも?」と思うようになったのです。

好きなことが仕事になるのは、やはり幸せです。ネットショップのメルマガを代筆するところから始め、少しずつ仕事を増やしていきました。私の書いたものを見て、先方から依頼していただくことも出てきました。流しに茶碗が溜まっていないかという、義母の厳しい目はありましたが、それをそっちのけにする度胸もつきました。

4人目も3歳になったので外に預けて、さらに仕事に本腰を入れようと決めました。義両親が毎朝口を揃えて「可哀そう」というのをしり目にバスに乗せる日々。フリー事業者の交流会に参加したり、気の合った相手とフリーペーパーを創刊してみたり・・・

しかし、楽しく仕事をし始めた頃、また、新しい問題が生まれました。

義母の病気

そんな折、義母が難病指定の大脳皮質基底核変性症という病気になりました。「うまくしゃべれない」と言いだして一年ほどで、「手が思うように使えない」「足が前に出ない」と訴えは増えていき、坂道を転げるように状態は悪くなりました。意識はしっかりしたまま、自分の意思で身体を動かすことも、話すこともできなくなる病気です。

みるみる体は動かなくなり、身障者一級の手帳も受け取りました。自力でベッドから起き上がるのが難しくなり、トイレへ一人では行けなくなりました。

フリーライターの仕事は基本的に在宅でできるとはいえ、家でじっと座ってばかりでは仕事になりません。しかし出掛けようとすると、自由が利かなくなった義母が不安のためか涙ぐんで引きとめることも出てきました。

仕事を増やすために預けたはずの末っ子の幼稚園は、すっかり義母の介護のためになっていきました。

介護と仕事

手持ちの仕事で細々と在宅ライターを続けてはいましたが、それさえもこのままいけばいつまで続けられるか分かりません。我が家にとって、私が仕事をすることがどれだけ重要かを義母に話してもなかなか理解しようとしませんでしたが、これは死活問題です。

時間は刻々と過ぎていき、子どもたちの学年は着実に上がっていく。もう私には、悠長に交流会などに出かける気持の余裕はなくなりました。

義母に必死に訴えて、ようやくデイサービスに行っている間だけパートに出てもいいということになりました。短時間のパートなら、今持っている程度の量のライティングの仕事も続けられます。私は喜び勇んで仕事を探し始めました。

しかし義母がデイサービスいる間だけという仕事は、そう簡単に見つかりません。出迎えの時間に間に合うようにと思えば朝が早く、朝見送ってから出かける仕事は、終業がデイサービスの終わる時間に間に合いません。

やっと条件に合う求人を見つけ、面接を受けました。仕事はワードを使った資料づくりと電話応対。内容も時給も就業時間も申し分ありません。私の経歴を見た社長も気に入ってくれたようで、かなり具体的な仕事の話にまでなりました。

しかし、「義母を介護している」という話になったとたん、社長の顔が曇りました。結果は不採用。最初からリスクがあると分かった上で採用するのは難しいと言われました。

ここで、私は心を鬼にすることにしました。義母を介護しながらでは、子どもを育てていけない。義母にはホームに入ってもらう。

これまでの様子を見ていた夫と義父、夫の妹も反対しませんでした。夫と私は時間をかけて義母を説得し、せめて本人が気に入る施設をと探し、以前義両親夫婦が住んでいたマンションのほど近く、思い出の地にあるケアハウスに入所することになりました。

するべき仕事ができる幸せ

義母を入所させたからには、何でもいいから就職しなければならない。そう思った私は自宅近くで事務員の求人を見つけて、面接を受け、採用されました。

実は、事務系の仕事は苦手だということは分かっていたのですが、何でもいいから就職しなければならないという焦りがありました。しかし職場でいろいろな問題に直面し、結果的に3か月という短期間で辞めることになりました。

辞める時に落ち込んだかというと、そうではありません。自分なりに必死に過ごした3か月間でした。ただ、仕事を決める時に焦って目の前に現れた仕事に飛び付いたことは反省しました。

請け負っていたライティングの仕事を辞めずに続けていたのは、その事務の仕事だけでは収入が足りないこともありましたが、書く仕事をあきらめきれなかったからです。中途半端はやめよう。本気で、やりたい仕事をしよう。そう腹が決まっていたので、退職の日は、背筋を伸ばして事務所のドアを出ました。

不思議なのは、その日を待っていたかのように相談員の話が舞い込んできたことです。専門的な業務であり、今まで経験もない私にこんな話があるとはだれが想像するでしょう。だからこそ、この仕事との出会いは運命的なものなのだと確信しました。

続けてきた「文章を書く」という仕事。始まった「人の話を聴く」という仕事。今やこのどちらが欠けても、私らしく働くことにはならないと感じています。